文/ 森秀雄
天生我就對物體形態的記憶容易模糊,再加上笨拙,怎樣也做不到僅憑腦中的想像或依據簡單的素描來作畫。
我的作品首先是從臨摹照片開始的,很早以前我就暗下決心絕不多添一筆照片上沒有的線,更不會用類似投影儀等現代化設備邊放圖像邊做畫的那般靈巧的模倣。
我除了用自己的雙眼和雙手使用手動噴槍畫畫以外,其他技法一概不會,而這又恰恰最適合我。就像考生素描時用木炭、麵包或涂或擦一樣,交替噴塗黑白顏料漸漸地向照片逼近。在這個過程中,我就像被照片裏的咒語緊緊地束縛著,只有當畫完成時,我才能從這咒語中徹底解脫出來。
我不僅僅是在複製照片和素描中那些肉眼可見的世界。同時,也在繪製肉眼無法看到的我的內心世界。
開始臨摹照片之後,我才真正悟出之前常常意識到的自我存在完全是個錯誤,這時起的我才真正學會了自由表現和無限想像。
現在想來,繪畫中的個性對我來説,如同神話,無關緊要。以前的優秀作品中真的存在自我?存在個性嗎?正如米羅的維納斯,在那裏只有匠人們的匿名精神。我也想在匿名中尋找自己的價值,很想做這樣的事。
中國,這個國度,博大的胸襟,青年人充滿希望的目光,無不令我感動,我十分願意通過此次個展,能像古時遣唐使一樣,為中日文化交流做些長久的、有益的事情。
不器用な僕
森 秀雄
僕は生まれつき物の記憶が非常にあいまいなうえに不器用さが手伝って、頭の中で想像したり、簡単なスケッチから絵描く事はとうていできない。
僕の作品は、まず寫真のコピーから始まる。寫真に寫っていない線は一本たりとも引かないと心に決めて久しい。しかも、文明の利器のようなプロジェクターで投影しながら描くという器用なまねもできない。
僕の目と手でまったくフリー、ハンドで描く以外のすべてを知らない。またそれが僕に一番あっているようだ。受験生のデッサンが木炭とパンで塗ったり消したりするように、白と黒の絵具を交互に吹きつけながらし徐點に寫真に近づけていく。この行為の最中、僕は寫真の被支配化に呪縛されているようなもので、この呪縛から解き放されないかぎり、僕の絵は完成を見ない。
しかし、寫真やデッサンという目に見える世界のコピーだけではなく、同時に內なる僕という目に見えない世界も同様にコピーをしているのである。
僕の寫真のコピーを始めるようになってからは、それ以前に自己が存在していたと思っていたことはまったく誤解であったということがわかり、表現の自由さとイメージの拡大を得ることができた。
今にして思えば、僕にとって絵畫の個性など神話にひとしく、作品のヘソの緒のようなものだ。過去の秀れた作品の中に自己だの個性だのが存在するのだろうか。例えば、あのミロのヴィーナスに。そこにあるのは職人たちの匿名の精神があるのみだ。僕は匿名のなかで生きがいをみいだせるような、そんな仕事をしたいものだ。
今回の個展を通じて中國と言う國の懐の深さ、そして若者達の目の輝き、全てが感激であった。古の遣唐使の様に僕に出來る日中文化交流で末永くお役に立つ事が出來たら非常に嬉しく思う。